芸術音楽と音楽療法(エッセイ)

世界音楽療法の日おめでとうございます!

Happy World Music Therapy Day!

今日3月1日は世界音楽療法の日なので、私が携わる音楽療法関係のお知らせを、今日は一日通して行ってきましたが、そろそろ一日も終わりそうなので、お知らせというよりも自由に想いを書きたいと思います。

今夜は学生に招待されて、小森伸二先生の門下生によるコンサートに行ってきました。とても素晴らしいコンサートで感激して帰宅しました。

そして、このコンサートで演奏された芸術音楽を聴きながら、『「この音楽と、音楽療法で使う音楽は、全く同じ要素でつながっている」ということを学生に感じて欲しいなぁ』と思いました。

音楽療法でよくある場面を想像すると、「クライアントの好みの歌(例;童謡、歌謡曲、ポップス、アニメソング)を音楽療法士がピアノ伴奏しながら一緒に歌う」といった場面が思い浮かびます。これは別にそこで起こっていることがクライアントの健康を支援することにつながっているのであれば、何も問題はありません。でもその伴奏をする時に、表現がおざなりになっていないでしょうか?

今夜のサックスアンサンブルの演奏曲の中に、ソプラノサックスが伸びやかに主旋律を歌う場面で、他の声域のサックスがアルペジオをしているのが聞かれました。そのアルペジオは本当に美しく、ソプラノサックスと共に同等の役割を演じていました。和声の一フレーズの中にも抑揚があり、音量も速さも生き生きと変化し、主旋律と共感し支えながら、主旋律の歌声に寄り添ってその音楽の旅路を共にしている感じがしました。

私は「歌は一つのストーリー」だと思っています。そのストーリーを歌うクライアントの伴奏をすることは、その歌の中にあるストーリーをクライアントと共にすることだと思っています。その歌のドラマの中に生きるということです。

その歌のストーリーに共感しながら、またそのクライアントの歌声の息遣いを感じながら伴奏をするのだから、たとえあるコードが1小節の中にあったとしても、ずっと同じ弾き方にはならないはずです。今夜のサックスアンサンブルで表現されていたような抑揚や、音量や速さの微妙な変化が存在する必要があります。それがクライアントに、音楽以外では感じられない美的体験をもたらすのです。もし機械的に音符にある音のみを演奏するのであれば、音楽療法士は必要なく、カラオケマシーンがあれば良いのです。

また低音域のオスティナートの上でソプラノサックスが即興的に演奏したり、フリーテンポっぽい和声進行の後に、ソプラノサックスが歌い上げたりする場面は、音楽療法の即興でもよく見られます。オスティナートのようなリズム的繰り返しと安定性が、クライアントの自由な器楽演奏(例、打楽器、特定のスケールに配置された音積み木、ピアノの黒鍵、など)を支え、後押しします。またフリーテンポの和声進行の後に間を持ち、クライアントが演奏で答える形を作ることで、音楽的な対話を発展させたり、音楽的に独り立ち(ソロ演奏)する支えになったりします。その時に和声進行の中に微妙な変化(和声構造、音量、フレーズの長さ、リズムパターンなど)があることで、返答の仕方や音楽的独り立ちの在り方が変わってきます。そのクライアントらしさが生まれてくるのです。今夜の演奏の中にも、ソプラノサックスのメロディが変化し発展していった通りです。全く同じことです。

また今夜の演奏曲中に部分的に聞かれた、違う声域でも高らかに歌い上げるユニゾンは、「我々は違うけど一つだ」という気持ちを持たせてくれます。音楽療法の場面においても、そのようなクライマックスに向かう体験が必要な時には、伴奏でも即興によるアンサンブルでも、和声なんか必要なく、一緒に単音メロディを歌ったり弾いたりすればいいのです。ユニゾンだからこそもたらすことのできるパワーとメッセージがあります。

音楽療法の場面で、打楽器を使うのをよく見ますが、音楽の美的経験(音楽の中にあるストーリー)を台無しにしていることが多いです。今夜のラージアンサンブルで参加したパーカッショニストの繊細さにあったように、タンバリン一つで音楽のストーリーやドラマを共にできます。ただ鳴らせばいい「鳴り物」のように扱わないで欲しいです。

様々述べてきましたが、芸術音楽にあるような音楽性を音楽療法に持ち込むべき理由として、我々音楽療法士はクライアントに「音楽的に寄り添う」必要があるからなのです。「音楽的旅路を共にする」必要があるからなのです。音楽はその人のストーリーや旅路を色鮮やかにするもので、それが言葉を超えたかけがえのない体験をもたらし、音楽を通してクライアントを勇気付けたり、表現できなかった悲しみや怒りに触れさせたりするのです。それがクライアントの変化への力になるのです。このようにクライアントに言葉を超えた体験をもたらすためには、音楽は芸術音楽のように豊かでなければなりません。

私は技巧主義の話をしているのではありません。音楽療法士には音楽の豊かさを常に意識して欲しいということです。

今夜招待してくれた学生が、このように芸術音楽に触れる機会があって本当に私は嬉しく思うし、音楽療法の学生を受け入れてくださる小森先生には感謝です。彼女らが、この豊かな芸術音楽に触れて、それと同じ豊かさを彼女らの音楽療法の現場にも持ち込んでくれるといいな。

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