「美」「価値」「意味」に関する一考察

*これは2019年6月22日に行った一連のツイートを、一部加筆修正をしてブログ化したものである。

妻が紹介してくれた漫画の中で、弟が生まれた時を回想し主人公が言った台詞が印象的であった。それは

「人は生まれてくるだけでいい」
「価値のない人なんていない」

本当にその通りである。生産性があってもなくても、競争に勝っても負けても、障害があってもなくても、それらは表面的なことであり、誰もが価値がある尊い存在だと私は考える。


私も赤ちゃんが大好きである。その無垢で柔らかな存在に、命の美しさを感じる。

「そこにいるだけでいい」

私は息子の出産に立ち会った時に、今まで経験したことのない愛と、その美しさを感じ他のを鮮明に覚えている。またその愛と美しさにより、自分の人生の意味や価値を感じた瞬間でもあった。

「ああ、私の命はここに繋がるためにあったのだな」と。

マズローも、生きる意味の一つにこういった美しさを見出すことを挙げています。この美しさがあるからこそ、私は生きられる。そう強く感じる。


私達は、人間社会が強調する生産性や社会成功という価値に目を奪われ、人の命をもその様な価値で評価しがちである。しかし人の命には根源的な美が宿り、それだけで価値のある存在だと私は考える。

私は音楽療法という仕事で、障害のある人と長く関わってきた。音楽という美的な体験を通して、障害のある人の中に宿る本質的な美しさが輝く、そして瞬間に立ち会えるのは、他に代え難い尊いことである。その美しい時間は、本人だけでなく家族や周りの人にも意味があり、喜びにもなり、価値のある経験となる。

特に生まれ持って障害のある人の場合、音楽療法を含めたどんな医療においても、その障害が治る訳ではない。でも音楽が、その人の根源的存在の美しさ(ノードフロビンズ音楽療法で言う「ミュージックチャイルド」にも包括されるものだと私は考える)を引き出し、生きる意味を再確認させてくれる。このように美しさに触れることは、生きる意味を再確認させ、生きる原動力になると考えられる。

逆に、このような美しさや豊かさ、公正さや遊びなど、マズローが言う「メタニーズ」が満たされないと、つまり生きる意味を見出せないと、人は精神的な病をきたすと言われている。

生産性や社会的成功ではなく、美しさや豊かさ、公正さや遊びなどを通して輝く人の本質的で根源的な美しさに目を向けることが、今の世の中に必要ではないだろうか?

今度赤ちゃんを見かけたら感じてみてほしい。

「なんてかわいいのだろう!」

生産性も社会的地位もないけど、愛おしく尊い存在。根源的な美しさを放っているのが赤ちゃんである。そしてその美しさは全ての人に宿っている。もしそれが見えないのであれば、それは人間の社会的なフィルターが影響している可能性がある。

美しさを曇らせる人間の社会的フィルターを外すためには、自分の根源的な美に触れることです。楽しいこと、ワクワク面白いこと、美しく感動すること。それらが自分の根源的な美に触れる方法である。美味しいものを食べる、音楽や芸術に触れる、スカイダイビング!生産性ないけどそれでいい!

ちなみに音楽療法は、一人ではその様な自分の根源的な美に触れられない人(例、障害がありサポートが必要な人、精神的にどん底にいる人、社会的フィルターが分厚過ぎる人、など)が対象になる。そして音楽を用いた関係性を通して、根源的な美しさに触れて、生きる意味と生きる価値を見出し、生きる力を高めていくことである。

このエッセイで伝えたかったのは、「人は本来的に美しく価値ある尊い存在」であるということで、「その根源的な美しさに触れること」が重要であるということ。そしてこの根源的な美(命)に価値を見出せない人は、社会的フィルターによりその美を見るレンズが曇っている可能性があること。「存在の美に触れる方法」には、「一見意味のない芸術や遊び」や「美的経験をすること」が重要であり、それが「生きる意味」や「原動力」になることである。そして音楽療法とは一人でその「美」に触れられることが出来ない人が対象となるということである。さあ美に触れに出かけよう!

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