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私と音楽心理療法について:音楽心理療法のシンポジウム開催に向けて

私と音楽心理療法について:音楽心理療法のシンポジウム開催に向けて

名古屋音楽大学 猪狩裕史

 このエッセイは、第18回日本音楽療法学会学術大会で開催される自主シンポジウム「日本における音楽心理療法の発展と可能性」の企画者として、私と音楽、そして音楽心理療法との関係を、個人史的回想を通して振り返りながら、何故このシンポジウムを企画するに至ったかを述べるものである。

私がもともと音楽療法士を志したのは、私自身が音楽に救われた体験をしたからである。特に10代の時に自分のアイデンティティを模索する過程での複雑な感情や孤独、人間関係構築の不器用さを体験する過程で、そういったテーマを扱った歌によく慰めを受けた。私にとっての歌の存在について、ブルシア [1998/2017]が音楽心理療法の視点から的確に述べている。ブルシアによると歌は;

人間が感情を探索する方法である。歌は私達が誰であるか、どう感じているかを表現し、私達を他者へと近づけ、私達が一人でいる時に相手をしてくれる。歌は私達の信念や価値を主張する。月日が経って、歌は私達の生活の証言となる。歌によって私たちは過去を追体験し、現在を探索し、未来の夢に声を与えることができる。歌は私達の喜びと悲しみの物語を編み、私達の内奥の秘密を明かし、私達の希望と絶望を、恐れと勝利を表現する。歌は音の日記であり、人生の物語であり、個人の発達史である(p. 35)

 自分にとって歌はまさにこのような存在であった。自分の惹かれる歌を聞き、それにより自分の感情や考え、信じる価値観、希望、絶望が明らかになった。誰にも言えない気持ちを歌が代弁してくれた。また好きな歌を歌うアーティストを共にする人と仲良くなれた。雑踏の中で孤独を感じる時も一人イヤホンで歌を聞いていた。歌は自分にとってとても大切な存在であった。それなので、お医者さんに救われた子供が医師を目指すように、私自身が人間の心模様を歌い、人の心に寄り添えるアーティストになりたいと思っていた。そして大学時代に音楽療法という言葉に触れて強い興味を持った。「音楽」と「療法」という言葉から、自分がアーティストとしてやろうとしていることと近いのではと思った。しかし学部での音楽療法の学習は、発達障害やアルツハイマー型認知症、統合失調症などの重篤な診断を受けた人を対象にした、ウィーラー( Wheeler, 1983)のいう支持的、活動志向の音楽療法が主であり、その中でやりがいを感じながらも「何か違うな」という違和感を同時に感じていた。

そんな中で強く惹かれたのはボニー式音楽とイメージ誘導法(以下ボニー式GIM)であった。自分の興味があった洞察的、心理過程志向の音楽療法、さらには分析的、カタルシス志向の音楽療法である。彼女の書いた本、「音楽と無意識の世界」 (1990/1997)を購入し、ボニー本人によるワークショップに参加したこともあった。しかしながら、このような洞察的、分析的ワークは、大学院レベルの教育と聞きがっかりしたことも強く覚えている。

それから約15年の月日が流れ、2011年の東日本大震災の被災をきっかけに、私は再び大学院へと留学をした。米国ヴァージニア州立ラッドフォード大学のジム・ボーリング先生のもとで、学部生時代からずっと学びたいと思っていた音楽心理療法を学んだ。人間主義、精神力動主義、行動主義、認知主義の四つの心理療法における視点を統合して音楽療法の中で用いるアプローチを修士論文のテーマとして取り組んだ。修士論文の臨床例としてトラウマのある大学生との即興のワークを行なったが、即興演奏を通し自己を表現し、自分の感情とつながり、共に即興することで強い絆が生まれ、自分の内的な課題を他者に打ち明ける勇気が持てるように変容していった過程を目の当たりにし、「ああ、これがまさに自分のやりたかったワークなのだ」ということを実感した。

また大学院では、ボニー式GIMと再会を果たし、レベル1のトレーニングを授業の一環として受けた。その後私はボニー式GIMの実践家(フェロー)になるためのトレーニングを続けた。レベル2のトレーニングを受けた時の演習体験を通して、自分の中の、小さいけど自分の人生を40年以上も支配してきたトラウマの根源にイメージ体験を通してたどり着き、和解し、克服することができた。教育分析という言語のみのアプローチによる精神療法も受けてきたものの、それではたどり着くことのできなかった問題を、ボニー式GIMを通して克服できたのである。この時に涙がずっと止まらずたくさんの涙を流したが、その時のトレーナーであるニッキー・コーヘン博士に「40年以上溜め込んできた涙をやっと流せたね」と言われた、忘れられない体験であった。

このように音楽は、心理療法に求められる「人の心をより良い状態に変容させるプロセス」に介在し大きな役割を果たすことができる。私はそれをセラピストとしても、クライエントとしても知っている。日本の音楽療法の領域において、これまで音楽心理療法に関する議論は活発だとは言えなかった。しかしながら2016年に名古屋音楽大学でボニー式GIMの実践家育成訓練 (2016)や、「精神分析的音楽療法セラピスト養成講座」 (ドイツ音楽療法センター, n.d.)が開催されたり、ブルシア (1998/2017)が編纂した「音楽心理療法の力動〜転移と逆転移をめぐって〜」が小宮暖氏により翻訳されたりするなど、音楽心理療法について議論する下地ができつつある。これが、私が第18回日本音楽療法学会学術大会において「日本における音楽心理療法の発展と可能性」という自主シンポジウムを企画する動機であった。音楽療法は、まだ多くの可能性を秘めており、その一つがこの音楽心理療法の領域である。そして音楽心理療法についての議論をいま始めることが、音楽心理療法の日本における発展に繋がると考えている。

 このシンポジウムでは、四つのアプローチを取り上げることなっている。一つは「『大切な音楽』を媒介とした語りと沈黙:受刑者への音楽ナラティヴアプローチ」と題して、松本佳久子氏に、主に大切な音楽、特に歌に関する話し合いを通したグループ音楽心理療法についての話をしてもらう。また「精神力動と音楽:分析的音楽療法の音楽家へのアプローチを通して」と題して分析的音楽療法士の小宮暖氏に、また「ノードフ・ロビンズ音楽療法:クリエイティブな自己を解放する音楽アプローチ」と題してノードフ・ロビンズ音楽療法士で名古屋音楽大学非常勤講師の長江朱夏氏に、それぞれの音楽中心的で即興的なアプローチについて話をしてもらう。さらに「日本でのボニー式GIMの有効性と予防医学への可能性」と題して、日本初のGIMフェローである小竹敦子氏に受容的アプローチであるボニー式GIMについて話をしてもらう。これら三つの技法(歌、即興、音楽とイメージ法)は、ブルシアも音楽心理療法に用いられる主要技法として上げているものである(1998/2017)。それらについて日本の環境で実践をしている四名から話を聞けるのは貴重な機会となるであろう。さらに指定討論者に、ドイツ音楽療法センターの代表で「もう一人の自分と出会う:音楽療法の本」の著者である内田博美氏、横浜カメリアホスピタルの医師である山之井千尋氏に迎えて議論を深める予定である。

 先に名古屋音楽大学におけるボニー式GIM実践家育成訓練について述べたが、その参加者から、「ああ、このようなこと(音楽の持つ療法的な力について)を学びたかった」という声を多くもらった。私も先日ボニー式GIMのレベル3モジュール1のトレーニングに参加したばかりだが、学べば学ぶほどこのアプローチでは音楽が効果的に人の心に働きかけていることがよくわかる。そしてその学びの過程は、小手先のテクニックを教えるのではなく、参加者自身がGIMを体験しながら内観することが前提として求められている。今後日本の音楽療法が心理療法の分野で根付き発展していく上で、このような音楽の、または音楽心理療法の個人的体験に基づいた影響が、領域への深い関わり(コミットメント)につながっていくと考えられる。そのような話を各シンポジストから聞けることにも期待したい。

 

参考文献

Wheeler, B. L. (1983). A Psychotherapeutic Classification of Therapy Practice: A Continuum Procedures. Music Therapy Perspectives, 1(2), 8-12.

ドイツ音楽療法センター. (n.d.). セラピスト養成講座. 参照先: ドイツ音楽療法センター: https://www.gmtc-jp.com/ausbildung/

ブルシア, K. E. (1998/2017).音楽心理療法への導入. 著: ブルシアE.K., 音楽心理療法の力動:転移と逆転移をめぐって(ページ: 26-41). NextPublishing Authors.

ボニーH, サヴァリーL. (1990/1997). 音楽と無意識の世界:新しい音楽の聴き方としてのGIM(音楽によるイメージ誘導法). (村井靖児, 村井満恵, 訳) 東京都: 音楽之友社.

名古屋音楽大学. (2016年6月28日). 「ボニー式GIM実践家育成プログラム・レベル1を開催しました(6/23~27)」. 参照先: 名古屋音楽大学: http://www.meion.ac.jp/topi/ボニー式gim実践家育成プログラム・レベル1を開/

 

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芸術音楽と音楽療法(エッセイ)

世界音楽療法の日おめでとうございます!

Happy World Music Therapy Day!

今日3月1日は世界音楽療法の日なので、私が携わる音楽療法関係のお知らせを、今日は一日通して行ってきましたが、そろそろ一日も終わりそうなので、お知らせというよりも自由に想いを書きたいと思います。

今夜は学生に招待されて、小森伸二先生の門下生によるコンサートに行ってきました。とても素晴らしいコンサートで感激して帰宅しました。

そして、このコンサートで演奏された芸術音楽を聴きながら、『「この音楽と、音楽療法で使う音楽は、全く同じ要素でつながっている」ということを学生に感じて欲しいなぁ』と思いました。

音楽療法でよくある場面を想像すると、「クライアントの好みの歌(例;童謡、歌謡曲、ポップス、アニメソング)を音楽療法士がピアノ伴奏しながら一緒に歌う」といった場面が思い浮かびます。これは別にそこで起こっていることがクライアントの健康を支援することにつながっているのであれば、何も問題はありません。でもその伴奏をする時に、表現がおざなりになっていないでしょうか?

今夜のサックスアンサンブルの演奏曲の中に、ソプラノサックスが伸びやかに主旋律を歌う場面で、他の声域のサックスがアルペジオをしているのが聞かれました。そのアルペジオは本当に美しく、ソプラノサックスと共に同等の役割を演じていました。和声の一フレーズの中にも抑揚があり、音量も速さも生き生きと変化し、主旋律と共感し支えながら、主旋律の歌声に寄り添ってその音楽の旅路を共にしている感じがしました。

私は「歌は一つのストーリー」だと思っています。そのストーリーを歌うクライアントの伴奏をすることは、その歌の中にあるストーリーをクライアントと共にすることだと思っています。その歌のドラマの中に生きるということです。

その歌のストーリーに共感しながら、またそのクライアントの歌声の息遣いを感じながら伴奏をするのだから、たとえあるコードが1小節の中にあったとしても、ずっと同じ弾き方にはならないはずです。今夜のサックスアンサンブルで表現されていたような抑揚や、音量や速さの微妙な変化が存在する必要があります。それがクライアントに、音楽以外では感じられない美的体験をもたらすのです。もし機械的に音符にある音のみを演奏するのであれば、音楽療法士は必要なく、カラオケマシーンがあれば良いのです。

また低音域のオスティナートの上でソプラノサックスが即興的に演奏したり、フリーテンポっぽい和声進行の後に、ソプラノサックスが歌い上げたりする場面は、音楽療法の即興でもよく見られます。オスティナートのようなリズム的繰り返しと安定性が、クライアントの自由な器楽演奏(例、打楽器、特定のスケールに配置された音積み木、ピアノの黒鍵、など)を支え、後押しします。またフリーテンポの和声進行の後に間を持ち、クライアントが演奏で答える形を作ることで、音楽的な対話を発展させたり、音楽的に独り立ち(ソロ演奏)する支えになったりします。その時に和声進行の中に微妙な変化(和声構造、音量、フレーズの長さ、リズムパターンなど)があることで、返答の仕方や音楽的独り立ちの在り方が変わってきます。そのクライアントらしさが生まれてくるのです。今夜の演奏の中にも、ソプラノサックスのメロディが変化し発展していった通りです。全く同じことです。

また今夜の演奏曲中に部分的に聞かれた、違う声域でも高らかに歌い上げるユニゾンは、「我々は違うけど一つだ」という気持ちを持たせてくれます。音楽療法の場面においても、そのようなクライマックスに向かう体験が必要な時には、伴奏でも即興によるアンサンブルでも、和声なんか必要なく、一緒に単音メロディを歌ったり弾いたりすればいいのです。ユニゾンだからこそもたらすことのできるパワーとメッセージがあります。

音楽療法の場面で、打楽器を使うのをよく見ますが、音楽の美的経験(音楽の中にあるストーリー)を台無しにしていることが多いです。今夜のラージアンサンブルで参加したパーカッショニストの繊細さにあったように、タンバリン一つで音楽のストーリーやドラマを共にできます。ただ鳴らせばいい「鳴り物」のように扱わないで欲しいです。

様々述べてきましたが、芸術音楽にあるような音楽性を音楽療法に持ち込むべき理由として、我々音楽療法士はクライアントに「音楽的に寄り添う」必要があるからなのです。「音楽的旅路を共にする」必要があるからなのです。音楽はその人のストーリーや旅路を色鮮やかにするもので、それが言葉を超えたかけがえのない体験をもたらし、音楽を通してクライアントを勇気付けたり、表現できなかった悲しみや怒りに触れさせたりするのです。それがクライアントの変化への力になるのです。このようにクライアントに言葉を超えた体験をもたらすためには、音楽は芸術音楽のように豊かでなければなりません。

私は技巧主義の話をしているのではありません。音楽療法士には音楽の豊かさを常に意識して欲しいということです。

今夜招待してくれた学生が、このように芸術音楽に触れる機会があって本当に私は嬉しく思うし、音楽療法の学生を受け入れてくださる小森先生には感謝です。彼女らが、この豊かな芸術音楽に触れて、それと同じ豊かさを彼女らの音楽療法の現場にも持ち込んでくれるといいな。

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A Hard Rain’s A-Gonna Fall (酷い雨が降り出しそう)

I heard this song,  “A Hard Rain’s A-Gonna Fall” by Bob Dylan in the first time in a long long time today on the radio (thanks to George Williams of “Ready Steady George!!”).  And I was moved by the powerful message of the song.

今日インターFMの “Ready Steady George”というラジオ番組で、本当に久しぶりにボブディランの “A Hard Rain’s A-Gonna Fall”という曲を聴きました。そしてこの歌の強いメッセージに心が打たれました。

I am not a poet.  So I don’t know the exact meaning of the song.  But I think I get the general ideas.  And the message is powerful to me.

私は詩人ではないので、この歌の正確な意味はわかりません。でもおおよその内容はわかります。そしてそのメッセージは私にとって、とても力強いものです。

The song begins like this

Oh, where have you been, my blue-eyed son?
And where have you been my darling young one?

この歌は次のような歌い出して始まります。

どこへ行ってたの 青い目の我が息子
どこへ行ってたの 私のかわいい子

And the song continues by the “blue-eyed son” describing the places he has been, the things he has seen and heard, people he has met.

そしてその青い目のかわいい子は、彼が行ってきた場所、見聞きしたもの、彼が出会った人々について語り出します。

And they all reflect the sad reality of the world.

そしてそれらは全てこの世界の悲しい現実でした。

And then he concludes the chorus by singing,

And it’s a hard, it’s a hard, it’s a hard, and it’s a hard
It’s a hard rain’s a-gonna fall. 

そしてその歌のサビを次のように締めくくるのです。

そして、強く、辛く、激しく、厳しい
酷い雨が降り出しそうだよ

I assume the song was written sometime in the 1960’s.  But the sad reality of the world has not changed much.

この曲は1960年代に書かれたものだと思いますが、ここで描かれている悲しい世界の現実というのは、あまり変わっていない気がします。

Listening to the song as a teenager back in 1980’s, I used to feel sad about the world that I was about to enter into.  Unfairness, injustice, loneliness, emptiness, hopelessness.  To me, these are the impression of the world that is described in the song.

まだ10代だった1980年代にこの曲を聴いて、自分がこれから暮らしていかなければならないこの世界のことを考えて、よく悲しい気持ちになりました。不公平、不正義、孤独、空虚、絶望。この歌の中で表現されている世界には、こういった印象を私は持っていました。

After hearing about the terrible terrorist attack in Paris, I started thinking more about the violence in the world and why it happens.

パリで起こった酷いテロリストによる攻撃のニュースを耳にして、世界の暴力について、そしてそれがどうして起こるのかより深く考え始めました。

Again, I am not sociology researcher.  So I don’t know the exact cause of the violence.  But I have some ideas.  And those, to me, are unfairness, injustice, loneliness, emptiness, hopelessness, what is depicted in the song.

私は社会学の研究者ではないので、暴力の正確な起源はわかりません。でもおおよその考えはあります。そして私から見るとそれらは不公平、不正義、孤独、空虚、絶望のような気がします。この歌で描かれているものです。

The world now feels like “a hard rain’s a-gonna fall”  A chain of violence.

世界は今、「酷い雨が降り出しそう」な感じです。暴力の連鎖。

Experiencing this awful reality of the world, this blue eyed son can become someone who would spend all of his time in front of computer writing negative things of others in the internet and fueling into more violence in the world.  If something went wrong and extreme, he could become a desperate terrorist or school shooter.  He could start the hard rain himself.

この酷い世界の現実を経験して、この青い目のかわいい子は、自分の時間の全てをパソコンの前で過ごし、ネットに他人の悪口を書き綴り、世界の暴力の火に油を注ぐような人間になったかもしれません。もし何かの間違いが極限までいってしまったら、彼は自爆テロリストになったり、無差別殺人をするような人になるかもしれません。 彼自身が酷い雨を降らせたかもしれません。

I could have become the one.

自分もそうなっていたかもしれません。

The last verse starts by asking another question to the “blued eyed son

And what’ll you do now, my blue-eyed son?
And what’ll you do now my darling young one?

この曲の最後になる5番も、またこのかわいい青い目の子への問いかけから始まります。

これからどうするの 青い目の我が息子
これからどうするの 私のかわいい子

And fortunately, the blue-eyed son answers to the question

I’m a-goin’ back out ‘fore the rain starts a-fallin’

そして幸いなことにこの青い目のかわいい子はこう答えます。

雨が降り出す前にまた出かけるよ

And he again starts describing the world he is going back into.  But he makes a strong statement of what he will do there.

And I’ll tell and speak it and think it and breathe it
And reflect from the mountain so all souls can see it
And I’ll stand on the ocean until I start sinkin’
But I’ll know my song well before I start singing

そして彼はまた彼が出かけようとしている世界について語り始めます。しかし彼はそこで何をするのかという力強い意思を表します。

そこで僕はこれらを人に話し、伝え、考え、その空気をしっかり吸い込むのさ
そして山の上からそれらを伝える 全ての魂がそれを見えるように
そして自分が沈むまで海の上に立っているさ
でも自分が歌わなければならない歌は、歌い始める前から良くわかってるよ

As a person, a father, a teacher, and a music therapist, I feel that I have to be “a-goin’ back out ‘fore the rain starts a-fallin'”.  I feel that I should start from where I am now, to breathe with the young souls and reflect what we can do to make the world a little better place, before they get consumed by the world’s unfairness, injustice, loneliness, emptiness, and hopelessness, which seem to me as one of the cause of violence.

一人の人として、父親として、先生として、また音楽療法士として、「雨が降り出す前に出かけなければ」ならないと思っています。今いる場所で、若いと一緒にそこの空気をしっかり吸い込み、そしてこの世界を少しでもより良い場所にするためにできることを伝えながら。彼らが暴力の根源の一つに考えられる世界の不公平や不正義、孤独、空虚、絶望に飲み込まれてしまう前に。

Please refer to the entire lyrics of the song in the link below.

http://www.azlyrics.com/lyrics/bobdylan/ahardrainsagonnafall.html

この曲の歌詞の全部の内容については、下記のリンクをご覧ください。

http://blogs.yahoo.co.jp/kosi0810/46681777.html

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民謡のリンク

名古屋音楽大学の音楽療法コースでは、大垣女子短期大学の菅田文子先生の『音楽療法の必須100曲』シリーズを活用させて頂いている。

そのシリーズにある民謡曲(「~節」、「~音頭」)のYoutubeリンクを集めてみました。

ご活用ください。

三橋美智也 炭坑節(高齢者編 p. 72)

東京音頭(高齢者編 p.74)

黒田節 三橋美智也(高齢者編 p.200)

草津節 三橋美智也(高齢者編 p.202)

三橋美智也 ソーラン節(高齢者編 p.70)

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